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2017年5月27日 (土)

すいません、宣伝です。

五月の爽やかな土日ですね(雨の地域もありますかね?)
おヒマな方は樋口のKindleはどうでしょうか。
ほぼアンリミで読めて、エロもエロくないのもあります。
amazon 樋口のページ



カクヨムに投稿した「花のいかだ」は濡れ場はないけど、今までで一番反応を頂きました。
10枚くらいの短編で、これからはこういう物を書きたいとは思っているんですが、なかなか難しく。
おヒマな方、覗いてやってください。
花のいかだ




今日は名古屋の性的少数者のお祭り、NLGR+です。
久しぶりに会いたい方と会えるでしょうか。楽しみです。

2017年5月26日 (金)

「裏ヴァージョン」

本題の前にちと宣伝をさせてください。

「花のいかだ」はコンテストでななななんと4位まであがりました、あざます!! 

もうさすがに落ちる気がするけど、未読の方、よろしくご笑覧ください。

大人のゲイの恋の話です。

花のいかだ




ネタバレしますよ。
「ナチュラル・ウーマン」は別格として、松浦理英子さんのお作では「裏ヴァージョン」が特に好きです。単行本が出たのは2000年なのに、今もときどき読み返します。
本作の粗筋や設定は説明し辛いというか、設定が判明する過程自体が、推理小説で謎が解けるときの面白さに似ているので、説明することをためらいます。
でも、それをせずに僕の感想を記すのは難しいので、ネタバレします。未読の方はご注意下さい。

高校生のとき仲の良い友達だった昌子と鈴子。
いっとき交流が絶えていたけれども、アラフォーとなり昌子の失業を切っ掛けに、鈴子は昌子を同居に誘う。家賃は毎月20枚の短編小説を鈴子のために書くこと。
感想や執筆の意図、やり取りを経て、次第に二人の特異な関係が明らかになる――。

この設定により、ときに翻訳スリラーときに同性愛を題材にした物、あるいは日本の伝統的私小説など、本編の中に幾つもの短編小説が織り込まれて色んな味わいを楽しめます。
また昌子と鈴子のやり取りは漫画のセリフみたいな、砕けた調子でなされて読みやすく、その中で、今で言うポリティカルコレクトネス(って僕は正確に理解しているわけではないのですが)に通じる価値観が率直に語られていて好ましくあります。
でも、本作を取り分け好きな一番の理由は、他の松浦作品に比べて、松浦さんの素の声に近いと思われる(そう、あくまでも僕が素と感じているだけかもしれません)記述が格段に多いためかと思われます。

例えば13章の「マサコ」という短編。
若い頃に新人賞を受賞するも小説家として認知されず、ボロアパートに住み、作品の意味や価値を理解されずに出版業界から干されてゆく。
この過去を淡い諦観を潜ませて書く「わたし」は登場人物の昌子なのですが、インタビューなどを読むと、相当に松浦さんご自身の体験と重なっているのかと思います。
なんでも「ナチュラル・ウーマン」や「親指Pの修行時代」を掲載した「文藝」は、以前は他誌で干された作家ばかりが書き、「難民収容所」と揶揄されたと松浦さんご自身が語っておられて、氏と昌子が僕の中で重なります。

あるいは15章「ANONYMUS」では、松浦さんの当時の心境、人生とか未来に対する虚無感や、屈託ない人に憧れながらそうはなれない神経質な自分への失望などが、相当に赤裸々に記されていると感じます。
そう、感じているだけで実際のところは分かりません、小説に書かれたことを私小説的な「告白」と受け取るなんて、僕の読み方が素朴に過ぎるのかもしれませんし、「告白」と受け取られることは松浦さんの計算のうちだったかもしれません。
でも、

小説なんか書きたくないの。小説読むような人間にもなりたくなかったね。

という記述が松浦さんの本心の吐露と思われて胸に刺さります。無名の僕にもそういう気持ちがあるのです、おこがましいけれども。

また、本作では性愛に由来しない人間関係の可能性がテーマになっていると思われて、「裏ヴァージョン」の主要登場人物二人は「友達」同士ですが、17章にこんな一文があります。

友達づき合いにも盛りの季節はある。

ある程度の年齢になると経験と相まって頷ける言葉であるように思います。
これに似たニュアンスの言葉として、松浦さんは「おぼれる人生相談」の中で

友達とは季節に咲く花

という深沢七郎の言葉を紹介していたと記憶します。
友達とは時季が来れば散る花であり、「裏ヴァージョン」の二人は、友情の花を散らせまいともがいているように僕は読んでいます。
そして、友情を終わらせたくなければ労わり合うべきと思うのに、この二人のやり方は変というか歪というか、言葉で闘うことで関係を維持するのです。
川上未映子さんとの対談で松浦さん自身が言及している重要なことが、「裏ヴァージョン」では昌子の口から発せられています。すなわち、

わたしはずっと、人間に生物学的性差があることが不愉快で、もっと言うなら個体と個体の間に差異があることからして不愉快で

そんな昌子に対して鈴子は辛辣に言い放ちます、

あなたは他人が嫌いだもの。他人が嫌いだし、信用してないから怖いんでしょ? それで性的な対象にできる相手がすごく少なくってさ。

繰り返しますがこれは単なるケンカではなく言葉での闘いであり、二人はこのゲームを楽しんでいます。そんな二人の関係・結びつきを作者は歪で奇矯と分かった上で肯定しています。

ここで話が逸れますが、松浦さんは好きな本としてメアリー・ゲイツキルの短編集「悪いこと」をかつて挙げておられて、その中の一編、「繫り」が「裏ヴァージョン」に影響を与えたのかな、と僕は勝手に推察しています。
俗に友情と呼ばれるものが、ときに幻想によって構成されていることを容赦なく分析し、暴いた「繫り」の筆致は、どこか「裏ヴァージョン」に似ている気がするのです。
そして松浦さんが、歪で奇矯な結びつきを肯定したように、メアリー・ゲイツキルも、欺瞞と幻想に彩られた繫りを、ある種の慈しみを持って描きます。
松浦さんはメアリーに己に似た資質――15章「ANONYMUS」で書かれたような――を見出したのかもしれません。

話を本筋に戻すと、様々な仕掛けを施した上で多様な価値観の尊重を訴え、何より無類に面白い「裏ヴァージョン」が僕は好きです。
余談ながら、松浦理英子さんの最新作「最愛の子ども」の基本のプロットというかアイデアが、すでに「裏ヴァージョン」の中に披露されていることは、松浦ファンなら周知のことと思います。
10数年の、おそらくは熟成の時期を経て書かれたのですね。
話題作が生まれては消費される中、松浦さんのその時間をかける執筆の姿勢に、文学、という言葉を改めて思い浮かべます。

 

(初出・シミルボン)

2017年5月25日 (木)

「レオ・レオーニ 希望の絵本を作る人」

色々と迷っている時に松岡希代子「レオ・レオーニ 希望の絵本を作る人」を手に取ったのは、「希望」という言葉に惹かれたせいだと思います。

レオ・レオーニという名は聞き覚えがあるのですが、何を描いた人か記憶になく、冒頭近く、

芸術家が、人々にはよく理解できないことをした場合、それは人道に反する行為をしたことになるのです。作品の持つ意味は、説明できるような内容のものでなければいけません。

とあって、本を閉じフテ寝をしようかと思いました。
僕自身は簡単な言葉で深い内容を小説として書きたいと願っていますが、すべてのアートが分かりやすくあるべきなんて、賛成できません。

それでもあきらめずにページをめくると、レオさん、若い時は仕事が長続きしないし、またムッソリーニ時代のイタリアでは人種差別法が公布され(本書で初めて知りました)、ユダヤ系のレオさん、アメリカへと脱出したようです。苦労なさったんですね。

ニューヨークで広告代理店に勤めたレオさん、水が合ったのか成功し、あのエリック・カールと出合って彼を世話します。
僕が本屋さんで働いていたとき、最も売れた絵本はエリックの「はらぺこあおむし」でしたねー。
というか、いま僕がほしいです。あおむし。

その後、ブルーノ・ムナーリと知り合ったりしつつ、ほとんど偶然に近い形で絵本「あおくんときいろくん」が生まれ、レオさんは絵本作家としてのキャリアを歩み始めます。

いま大人気のメイプル超合金のカズ・レーザーさんがネットニュースで語っておられたのですが、売れている大御所芸人のほとんどは「運に恵まれた」と言うそうです。
そこに謙遜がゼロとは思いませんが、ある種、真理であるようにも思います。
面白いものを作っても、書いても、演じても、必ずしも評価されるわけではなく、何か表現をするなら、不遇を覚悟しておかなければならないのでしょう。

一方でレオさんとエリックの例のように、人とのご縁の大切さも、見逃すことはできません。
しかし、運がいいから良縁に恵まれるのか、成功したから結果的に良い縁に見えるのか、そんなことを考える暇があったら、作品を書くべきでしょうか。

それはともかくレオさんはこんな言葉を残しています。

子どもたちにすべての解答を与えないこと、底の底までさらけ出さないことです。そうすれば子どもたちは自分なりの創造性へ向けて、一押しされることになります。

この言葉は絵本に限らず大人向けの書籍にも当てはまる気がします。
ケースバイケースですが、くまなく説明された小説を読むと、想像する余地を奪われたようで、たまに嫌になります。
でも、そういう本を読みたくなる時もあるので、読者は、というか僕は、わがままですね。ハハハ。

(初出・シミルボン)

2017年5月24日 (水)

「花のいかだ」の宣伝です、すいません(汗)

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ひいい、カクヨムさんで公開した「花のいかだ」はコンテストに応募しているのですが、現在6位。
これも応援してくださった皆さんのお陰です、ありがとうございます!
(でも、ここらで下降する予定w)
大人の男性同士の恋の話です。よろしければどうぞ。
花のいかだ




あと数日前から書籍感想および性的少数者関連の本の紹介を始めました。
主にシミルボンさんで発表した物の転載です。
もちろん了解を得ていますので、よろしければこちらも。

「サンタランド」

「サンタランド日記」は短編集です。
デビッド・セダリスさんは累計700万部を誇るアメリカの人気作家で、ちなみにゲイです。
ゲイですが、そのことに重要な意味を持たせないようにセダリスさんは努めているように感じます。おもしろい作家、たまたまゲイみたいな。

氏がニューヨークのデパートで、クリスマス用のイベント会場でエルフ(小人)に扮してアルバイトをした経験を記したのが表題作の「サンタランド 日記」になります。
必ずしも時給や待遇面に恵まれたわけではない接客業で、お客さんはエルフ=セダリスに人格があると想像せず、人間観察眼を持っているとは考えずに侮り、愚かで滑稽な姿を次々と氏にさらします。
お客さんだけではなく同僚たちも、やはり滑稽で、けれどもそんな姿を氏は愛すべき存在としてユーモラスに描きます。
いえ話はそれで終わらず、子どもの個性を親の都合で潰そうとする親、人間の尊厳を軽視する輩などにセダリスさんはいじわるで、そこに個性を否定されそうになったであろう氏の過去を想像し、いじわるさで戦う姿にゲイとしての、あるいはマイノリティの心意気を見ます。
でも、そのいじわるさもあくまでもユーモアで包まれて、決定的な対立や攻撃を避けており、「ああセダリスさんの小説は好きだなあ」と油断していたら、ネタバレにならないように詳しくは記しませんが、とても怖い、本気で心臓の跳ねる短編も併録されていました。
なんと言いましょう・・・人が、人として成立できる条件をぶち壊すような怖さ。あるいは、「誤魔化す」ことのそら恐ろしさ。
それを書くセダリスさんは、ただ温かく人間を見ているのではなかった、同時に冷たくも見ている。
それで気付くのです、ユーモラスな文章を書く人の内面が陽気で明るいとは限らない、胸の奥に黒いものを隠しているからこそ、文章や表面を明るく装う場合もあるのかなあ、と。

(初出・シミルボン)

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