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樋口のカクヨム作品一覧とご説明

現在カクヨムでは以下の作品を発表、若しくは連載しております。
簡単に説明を添えておきますので、気になるお作はぜひご一読ください。



「こんなこと考えてたのか日記」
ちょっとひねったブログです。
以前のここのように、日々の出来事や樋口の小説観を書いています。



「恋と愛情の短編集」
性愛に関する色んな短編小説をここにまとめています。
今後も書き上がったら加えていく予定です。



「お約束の通用しない怖さの短編集」
こちらは怖い短編ばかりを収録しています。



「トラックに何度も轢かれて煎餅みたいになって異世界に飛ばされました」
樋口初の異世界物! ってこともないのですが、だいたいフザケテいます。
コメディです。
王道の異世界物を求める向きにはお薦めしませんw
笑いたい方は歓迎!



「いつか誰かがドアを蹴破って僕を襲うのだと思っていた」
ノベルゼロ候補作。
病気と闘う本田おりがみと恋人・ナカヤマの物語。
泣くぞ。



「希望ヶ丘高校軟式テニス部 コウタとアキラ」
昭和が平成に移る頃の文化・風俗と、ゲイであると自覚したコウタとやんちゃなアキラの青春小説。
「資料」の意味でもご興味会う向きには一度読んでいただきたいですー。
本格テニス対決のシーンもありますよ。



「トイレ遭難」
こちらは番外編、シミルボンのコンテストで三浦しをんさんから選評を賜った短編小説です。



現在読めるのは以上、樋口は次の長編をコツコツ書いております。
上のURLから読んで、応援いただけると幸いです。押忍!



(しばらくこの記事をトップに固定しますので、新しい記事はお手数ですがスクロールしてご覧ください。)

2018年7月22日 (日)

タニア・クラスニアンスキ「ナチの子どもたち」

タニア・クラスニアンスキ、吉田春美訳「ナチの子どもたち」を見つけたとき、「今さらナチを学ぶより、現代諸国の状況でも知ったほうが」と思ったのは事実で、けれど初版が2017年ということもあり、現代の視点からナチを顧みるのもいいと思ったのです。

 

しかし、表紙を開き、ブックカバーを折った裏の煽りの文に、こうあるのを見たとき、小さからぬ動揺がありました。

 

子どもたちは父の姿をどのように見つめたのか。
本名を隠して生きた者、極右運動に走る者……

 

僕は、決定的に間違えていたのです。
僕は本書は、ナチ党政権下におけるドイツで暮らした子どもたちを追ったノンフィクションと思っていたのです。
ヒムラー、ゲーリング……まさか本当にナチ高官の子どもたちの生涯に迫った一冊とは、夢にも考えなかったのでした。

 

その考えなかったことには理由があり、恐らく人類史上最悪の悪を成した者たちにも穏やかな父の顔があり平和な家庭があった、その事実を「無意識に」否定したかったらしいのです。そんな幸せ認めたくない、と。

 

本書の趣旨を悟り、頭を抱えました。
親の罪を果たして子は背負うべきなのか。
親と子は別の存在とは言え、まったくの無関係にはなれない。
戦後、子どもたちがどう成長したか見ることは、汚れのない布が踏まれ破け汚れるのを眺めるのに等しい行為で、そこには痛みがある。

 

しかし、何かの縁、腹を括りページをめくります。

 

ユダヤ教に改宗した「子ども」についてこう記してあります。

 

心理学者ダン・バー=オンは、このタイプの改宗は「加害者のコミュニティーに属しているという重荷から解放されたくて犠牲者のコミュニティーに」加わろうとしているのだと考えている。

 

分析、容赦ない。ゲイ差別する人がハンコ捺したように「私にはゲイの友だちがいます」っていう、アレみたいなパターンでしょうか。

 

ある娘は今も極右主義者の「プリンセス」として振る舞い(還暦すぎたプリンセスです)、子ども時代にゲットーの中のユダヤ人を目撃し、子どもながらに「父の罪」を察していた者おり。

 

アイヒマンを調べた精神科医は彼について次のように記します。

 

彼をしてその時代最大の犯罪者のひとりたらしめたのは、単なる思考の欠如であり、それは愚かさとはまったく別のものである。そうした思考の欠如は、他者の立場に身を置くことができない――「自分の見方と異なる視点で物事を見ることがほとんどできない」――という点や、もの忘れの激しさにも現れている。

 

何かの「マニュアル」に支配されると、人は思考を止めるというのは、僕も経験から学んだことで頷けます。

 

それから、個人的にルドルフ・ヘース。彼の名は忘れません。

 

なんの迷いもなく、ただ上官の命令にしたがって、「国家の敵」とみなしたユダヤ人男女と子どもたち、ジプシー、同性愛者を大量に殺害した男たちの一人である。

 

ユダヤ人が黄色い星だったのに対し、同性愛者は逆三角形のピンクを胸につけていました。

 

ギャグ以外で流行言葉を使うのは好きではないですが、「究極の毒親本」と言えるでしょうか。
ちなみに、ゲットーを描いた優れた映画の一本に、「縞模様のパジャマの少年」があります。

(初出・シミルボン)

2018年7月17日 (火)

バディにエロ小説載っています

バディ9月号に「黒猫と裸エプロン」載っています。
ライトでハッピーなテイストのエロ小説です。
バディさんはアンリミでも読めるので、ぜひ!

2018年7月16日 (月)

絲山秋子「薄情」

思えば、「ラジ&ピース」で、群馬に引っ越した主人公が地元の老婆から、ゴミの出し方を忠告されるシーンから始まっていたのかもしれない。

 

強いコンプレックスを持つが故に人と距離を保つ主人公は、ゴミの出し方にイチャモンをつけられると思っていたのだ。けれど実際は、老婆は群馬でのゴミ出しのルールを親切に教えてくれた。

 

本作の主人公が他者への信頼を決定的に欠いている、言い換えれば「人は怖いもの」と認知が歪んでいる、それを端的に示した場面と思う。

 

谷崎潤一郎賞を受賞した絲山秋子氏「薄情」は受賞にふさわしい傑作である。
と記すと、受賞当時からその価値が分かっていたかのように勘違いをさせてしまうが、実際には今回の文庫化にあたり、堀江敏幸氏の解説を参考に、ようやく読解できたのである。お恥ずかしい。

 

そして読解できると、「薄情」への道は冒頭の「ラジ&ピース」から、いやそれ以前から始まっていたのだろうと考えを整理できたので、それを本稿では記したい。

 

絲山氏にとって土地が作品を生み出す上で重要なことは、多少なりとも氏の作品に接した者ならご承知いただけると思う。
「薄情」の舞台である群馬は氏自身が住んでいることもあり、他にも「作家の超然」でも舞台となっている。

 

「ラジ&ピース」、「作家の超然」、「薄情」を考える上で、メルクマーク(指標)となったのは「作家の超然」であると思われる。
いや、群馬を舞台とした作品のみならず、全絲山作品で一つの到達点となったのが「作家の超然」であった。

 

小気味いい不良性と個性豊かな登場人物たち、それから読んでいて心地いい文章は絲山氏のデビュー作「イッツ・オンリー・トーク」の特徴であった。
しかし作家は自己模倣を良しとせず、作品ごとにテイストを変えて行く。

 

絲山ファンに根強い人気を誇る川端賞受賞作「袋小路の男」、豊かな物語性を獲得した「海の仙人」「逃亡くそたわけ」「ばかもの」、不穏・寂寥感・抒情性・ユーモアなどを孕んだ短編小説群、文体を変え、方法論を工夫し、作家は違う味わいの作品をコンスタントに発表して行く。

 

違う味わいの作品たちの中で、氏は文学そのものと格闘する色合いを、徐々に濃くしていく。「愛なんかいらねー」「エスケイプ/アブセント」と続き、その到達点が「作家の超然」であった。
そして「作家の超然」以後に「不愉快な本の続編」「離陸」と文学との格闘は続くのだが、「作家の超然」で記された思考がより発展し、練られ、洗練された形で書き綴られたのが「薄情」である。
同時に、「作家の超然」で生まれた思考を発展させる滋養となったのが、「ラジ&ピース」の老婆であったと。

 

「作家の超然」は二人称小説であり、主人公の女性作家は何者かに「おまえ」と呼びかけられる。
氏のブログを読んでいた者なら納得できると思うのだが、「作家の超然」は極めて私小説的であろう。
執筆前に絲山氏本人が病気で手術したこと、おそらく他の作品では一切ふれていない家族とのエピソード。
フィクションであるにせよ、個々のエピソードの多くは実体験に依る部分が大きいと推察される本作は、絲山氏の作品の中で異色である。
そして私小説的であるが故に、氏の生の声を聴いているような感覚に陥る。治療のため動いてはならない場面を作家はこう記す。

 

アカシジアというのだ。おまえは思い出す。
動きたくて動きたくてうずうずして仕方ない、それが本当につらい。その症状をアカシジアという。
おまえの二番目の兄が薬の副作用で訴えていた。当時のおまえには理解できなかった。
(中略)
赤ん坊のように足をばたばたさせたが、すぐに押さえつけられた。まだですか。どうしてまだなんですか。
何分だの何秒だのといった時間の単位は通用しない。
どうしてまだなんですか。
おまえは動物の悲しみを目に浮かべる。

 

自由に動けないこと。自由ではないこと。作家はそれと闘争するために小説を書いてきたと言って過言ではない。
しかし自由になることが容易ではないことを引用した先のシーンで読み手は印象付けられ、この後、作家が文学の今であり今後をどう認識しているのか「作家の超然」を読み終えて知ることとなる。

 

先に筆者は「作家の超然」で生まれた思考が「薄情」に発展したと書いた。
発展したことの一つは人称である。
「作家の超然」では前述の通り「おまえ」と主人公は何者かに呼ばれ続けたが、「薄情」において主人公の宇田川はひんぱんに「かれ」とやはり何者かに呼び続けられる。

 

この人称の操作により試みられていることは、主人公を冷めた目で見ること、近づきすぎず距離を保つこと、「何者か」が主人公を客観視するためである。
何者かは顕微鏡を覗くように主人公の心理であり行動を観察し分析し、記録する、選び抜かれた言葉を使った小説という形式で。
もし「作家の超然」も「薄情」も一人称小説であったなら、主人公の主観に基づく主張がうるさくて、ここまで評価の高い作品とはなり得なかったのではないか。

 

もう一つの発展が、ほかならぬ「自由」についてである。
多くの小説が東京や大阪、大都会を舞台にする中、(田中慎弥氏や小野正嗣氏の作品など)兆しはあったものの、地方で生きる者の内面を精緻に心地よく描いた、単に心地いい夢物語ではなく、暗い部分にも目を向けて。
それが「薄情」で達成されたことであり、地方で生きる「かれ」に何者かが温かい目を注いだとき、何者かは一つの自由を手に入れたと言っていい。

 

今なら、「ラジ&ピース」の主人公はゴミ捨て場で老婆に声を掛けられても、反射的にイチャモンをつけられると警戒せず、人間の信頼に基づいた対応をするかもしれない。

 

基本、雑誌掲載時は我慢して単行本を購入し読みたいので「薄情」以後の作品に接していないけれども、「夢も見ずに眠った」に「御社のチャラ男」を読むのが楽しみである。非常に。

(初出・シミルボン)

2018年7月10日 (火)

神谷和弘「ウルトラマン『正義の哲学』」

例えば芥川龍之介の「藪の中」は一つの事件を複数の者が語ることで、真相は分からないわけで、そういうことは現実にもよくあるように思われます。

 

というのも人における真実はその人の見える範囲の光景、それから得られる情報から得られるわけで、すなわち真実の一面しか見ていなくても、本人はそれに気づかないのも致し方なく。

 

しかしそこで「自分の見ているものは偏っている」と考え右斜め45度に動いて「おお、このような事実が」と「見えないものを見ようと努める人」もいるわけで、そういう人の言葉により、世の中は複雑であると樋口のごとき凡人は再認識させられるのであります。

 

が、いつの頃からか45度を動くことを億劫がる人が増え、自分の手に届く範囲の情報で満足し、それどころか自分にとって甘い甘~い美味しい痛くない都合のいい情報こそ「真実!」と言い張り、それが笑って見過ごせない状況まで来ているのは現実の政治に影響を及ぼしていることで皆さんご承知かと。

 

ポストトゥルースもフェイクニュースももう沢山、そう考える人は多く、事柄を単純化して何事も推進させようとする世の流れに危機感を持ち、「揺り戻し」が起こっているように見えます。
なんでもアメリカでは社会的問題に関心を持つのがトレンドになっているとネットニュースで見ました(ある程度信用できる媒体からの情報だけど本当かな?)

 

また日本の一部の作家も虚実を意識し、事の単純化に抗う作品を発表しているように見受けられます。

 

そこで冒頭に話を戻し、「藪の中」です。
一つの事件も、語り手によっては複雑怪奇になり真実は藪の中。
誰もがその人における事実を語っており、でも真実が不明になるのは、その人の視界の範囲に映るものだけを語っているから。

 

それで、藪入りを避けるために45度動きましょうと提唱したい、言い換えれば複数の視点を持ちましょう、特に物書き志望者は、と主張したいのです。

 

泥棒はよくないことだ、でも泥棒をするには何か理由があるはずだ、そうか、事情があって貧困に苦しんだか、ならば社会的にこういうサポートがある、けれどサポートがあるという情報が届かなかった、それにしても泥棒はよくない、罪を憎んで人を憎まず、とこう幾つかの視点から考えることが、これからの時代の小説には必要なのではないかと思います。

 

いま樋口が書いたことを丁寧に優しく説明してくれるのが神谷和弘さん「ウルトラマン『正義の哲学』」です。

 

これは人間およびウルトラマンの側から見れば「悪」だけど、怪獣側から見たらやむを得ぬ事情がある、という解説を丁寧に行い(著者は学校の先生で読みやすい平易な文章で深いことを書かれます)、すなわち、複数の視点を持つことに繋がるやもしれません。

 

何も複数の視点を持ったから複雑な作品を書くべきと主張したいのではありません、シンプルでパワーに満ちた作品、実に結構。
ただ、複数の視点を持ってシンプルな作品を書くのと、自分の枠の中から出ずにシンプルな作品を書くのでは作品の奥行きが違うと思うのです。

 

ということで、本書をお薦めします。
……って、何様の立場から主張しているのだ私は。
おお、複数の視点!

(初出・シミルボン)

2018年7月 7日 (土)

三浦しをん「政と源」

守秘義務があるのですが、もういいでしょう。
東京で介護の仕事をしているとき、とてもいなせなお爺さんがいらっしゃいました。
僕等介護職員にも優しく、利用者の間の弱い者いじめなどを許さず、「タバコの吸い過ぎに気をつけてくださいね」と注意された時の笑顔はいたずらっ子のようで、どの職員からも好かれているお爺さんでした。

 

三浦しをんさん「政と源」を拝読して、あのお爺さんのことを思い出しました。
だってやんちゃでいなせで優しいところが、職人の源さんにそっくりだったからです。

 

一方の幼なじみの政さんは、元銀行員で堅物、源さんと正反対の性格なのに、なぜかウマが合います。

 

単行本になった時、装丁がポップで、ギャグいっぱいのユーモア小説を想像していました。
いえ、ユーモアはたくさん描かれていて、頬がゆるむことしきりなのですが、全体にほの暗い色彩があります。

 

政さんと源さんは戦争を共通体験として持っており、とりわけ明るく豪放磊落な源さんは、目の前でお母さまと兄弟たちが火に包まれるという体験を胸に秘めています。

 

政さんは家族のためを思い家庭を顧みずに仕事に没頭し、いざ退職をしたら家族に捨てられて孤独死ではなく孤立死してしまいそうです。

 

おのおのに事情を持ち、悲しみを秘め、それでも二人を中心とした人々は前向きに、日々を大事に生きていきます。

 

「何事に関しても『堅実』なんてことはありえねえよ。ゴールも正解もないからいいんじゃねえか」

 

単に明るいだけではなく、ほの暗さがあるからこそ小さな光がより一層強く輝く。
本作はそういう小説なのだと思います。

 

ところで冒頭のお爺さんはまだお元気でしょうか。
100歳まで生きて不思議はない方でしたので、まだご存命の気が。
久しぶりにお会いしたくなりますね。

(初出・シミルボン)

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